著者紹介
最小化

清水秀登
昭和12年6月16日生

◆山口植物学会役員
◆周防巨木の会主宰
◆風子会代表
◆山口地学会会員

            
 
 
ガントレット
最小化

エドワード・ガントレット(英人)

明治40年山口高商に赴任、9年間在住した。

彼の山口県に残した足跡は、学術や教育の他、観光面においても大なるものがあって、その面での大恩人と仰がれている。秋芳洞を、日本はもとより世界に紹介し、長門峡を探勝してその真価を説いた。

長門峡についての彼の講演の記録の一部を引用してみよう。

私はまだこの種類の景色で、これ以上のところを見たことはありません。それは即ち阿武川の渓流です。

 春の五月の頃のこと景色はなんとも形容できません。てんでに好きな色に咲きにおういろいろな花の色の配合や、錦のような木の葉が水に映る風景はとても人間業ではできません。

 その中でも一番きれいなところに行くのは、なかなか困難です。たとえば生雲川から阿武川へ落ちる滝が三つ四つあるが、これを見た人はまことに少うございまして、しかもその佳絶な景色は想像の及ばないくらいです。

なお、山田耕作の大成の裏には、ガントレットがその素質を見い出したことが緒となっている。(耕作の姉はガントレットの夫人)

            
 
 
冬の長門峡
最小化

中原中也

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

 我は料亭にありぬ。
酒汲みてありぬ。

我のほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰も魂のあるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがて蜜柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。

ああ!-そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

            
 
 

目次



参考文献
最小化


防長風土注進案 (1983年)


山口県風土誌〈第1巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第5巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第9巻〉 (1973年)


◆岩国市史

防長風土記 (1957年)


玖珂郡志 (1975年)


◆日本の滝 上・下 土屋書店・渡辺晃一

防長百山 (1977年)


◆やきもの風土記 マツノ書店・神崎宜武

◆長門周防の伝説 第一法規・松岡利夫

山口県地名考 (1978年)


◆西日本の山釣 釣りの友社・山本素石

◆日曜の地学 山口地学会

沢登りの勧め―渓谷美を楽しむ知識と技術 (1978年)


◆日本の地形 岩波新書・貝塚爽平

◆その他

            
 
 
関連サイト
最小化

 Cray's Whisper

VACCO HOSTING SERVICE

Browntongue

LLP en

玖珂隕石に光をあてよう

防長四十八滝

防長四十八渓

            
 
 
No.01 東長門峡 ひがしちょうもんきょう
最小化

阿東町 川上村

山口県を代表する渓谷で、ふつう長門峡とよばれている。一般的な百科事典類にも、全国約30の著名な渓谷のうちにリストアップされている。

また、この渓谷は国および県の「名勝及び天然記念物」に指定されている。その記載文より一部引用しながら説明する。

広義の長門峡は阿武川の支流も含む中流域だが、狭義のそれは本流部分を指し、その上半部を東長門峡、下半部を西長門峡と呼ぶ。

その境はほぼ湯ノ瀬温泉あたりとなるが、西長門峡の方はまとまりに欠けていて大味に思えるので省略する。

また東長門峡の方も遊歩道部分だけに限定したい。そうすると下限は竜宮淵、上限は山口線の長門峡駅ということになる。この間約5㎞、コンクリート道床で手摺も随所に設けてある、ぜいたくともいえる遊歩道である。

この遊歩道は高島北海が、自分の作品を金にかえ、投じて建設されたものだそうで、時価ならば数億円というところであろうか。

萩に近い阿武川ダムから焼く10㎞、湖岸と川沿いの車道をたどると竜宮淵に到着する。道路はここから本流をそれて南西に向い、野戸呂を経て篠目に通じている。

竜宮淵のバス停から歩道を100メートルばかり進むと、野戸呂方面からの支流が落ちるように合流している。このあたりは広くて深い淵をなしており、禁猟区のせいかアユ・マス・コイなどが群をなしている。

すぐそばに食堂があるので餌が豊富なせいもあろう。対岸の絶壁に眼を転じると、イワヒバがびっしり着生しているのが見える。

淵の上限から先は断魚滝と賞する瀬で、水流が大岩の間を縫っている。この渓谷の岩石はほんのり緑色を帯びた白っぽい流紋岩である。このあたりは他より侵食を受けやすいようで、甌穴も見受けられる。

歩道を10分ばかり進むと紅葉橋が見えてくる。赤い鉄製の吊橋で結ばれた対岸には支流の生雲川が合流していて、その右岸沿いに新たに遊歩道が整備された。(生雲渓の項参照)

長門峡の方の遊歩道は紅葉橋のたもとで小トンネルとなり、北海洞門と名付けられている。この先の河床は、断魚滝と似た瀬で、和留瀬と呼ばれるが、これは悪い瀬の転じたものだろう。

歩道は終始左岸を縫っているが、およそ水面から5~10㍍の高さにあり、地形に応じて登ったり、川床近く降りたり、場所によっては棚のように川面に張り出している。

和留瀬から10分ばかりで佳景淵がかなりの距離つづく。歩道の上も下も崖で、ビル工事の足場を歩いている気分になる。その終末部に二つ目のトンネルがあり、それを抜けたら淵が終わって瀬と化している。

渓谷はここで左にカーブしていて、前方に岩床がモコモコとした広がりをなしているのが遠望される。広滑(ヒロナメ)である。そして左岸から迸る小川の水に裾を洗われるように鈴ヶ茶屋が建っている。ここはこの渓谷の中間点で、休日には屋外に食台が据えられ、憩う人々で賑わっている。

そこから先は谷幅がやや狭くなってくる。渓谷内の植生はほぼ自然状態で、スギ、ヒノキの植生はないようだ。カシを主体とした照葉樹林で落葉樹が混生している。常緑樹としてはウラジロガシ・ヤマグルマ・タラヨウ・サカキ・ホソバタブ・アラカシ。落葉樹にはリョウブ・アカシデ・エゴノキ・イロハカエデ・ヤマボウシ・ハゼなどが見られ、晩秋に彩を添える。

私はまだこの渓谷の本格的な紅葉を目にしていない。竜宮茶屋に掲示してある写真によるとかなり鮮やかなようだ。。現在十月中旬に行われている紅葉祭は時期的に多少早過ぎるのではなかろうか。

広滑の先には瀬淵があり、続いて大谷淵がある。このあたりでは対岸の峭壁や俊峰が目につく。補某が左岸にあるのは右岸の方により断崖が多いせいであろうか。この渓谷の谷の切れ込みは200メートルにおよんでいるが、高所には松が多く、仰ぎ見れば山水画の味わいがある。望むらくは、渓谷を展望できる高所に通じる歩道を設けて欲しいものだ。恐らく邪馬渓に似た眺望を楽しめるものと思う。

大谷淵の先に舟入がある。このあたりの両岸は水平の節理に沿って水蝕せられて段上をなしている。そのため淵の一部が方形状に左岸を切り込み、船着き場のようになっていたり、階段状をなしていたりする。おのおの、<舟入り>・<雛壇>の名を頂いている。

このあたりから榧(かや)ヶ淵にかけてが、渓谷内で一番優れた景観のように思う。特に榧ヶ淵の周辺は、淵と岩と樹木と尖峯のとりあわせがよい。絶壁の方には、梯子岩とか、焼ヶ尖とかの名前がついている。

川筋が再び大きくカーブして北にそれるが、その先に桜淵がある。西岸は絶壁状で歩道は川面にせり出して橋のようになっている。

この先に休憩所があり、炊飯もできる。この周囲には人工的なものであろうか、カエデが林をなしている。タカオウカエデとの名票がついていたが、イロハカエデの別名だそうだ。

歩道沿いの樹木には随所に名札がつけており、植物に疎い私にはとても参考になった。取り付けは徳佐高校生物部とあった。

小屋から丁字川までの残り1㎞はやや単調である。山口線方面から訪れた人達が”渓谷はこれだけのものか”と速断して折り返してしまうのを見かける。その意味では下流側つまり萩方面から入峡するのが良かろう。一番合理的な探勝の方法は、2台の車で来て、一台は長門峡駅近くに、もう一台は龍宮淵近くに駐車する。お互い逆方向から入峡して、中間点で車の鍵の交換をすれば、自分の車の所へ引き返す時間と体力とが節約できるし、5㎞の完踏もたやすいことになろう。

長門峡駅からは国道を横断して100メートルの所で橋が篠目川を跨いでいる。その先100メートルが丁字川である。丁字川とは川が三叉路状をなしている箇所で、右岸の徳佐方面からの川と、左岸の篠目川とが正面衝突し、ここで一本となって直角に西進し、峡内に突入する。篠目川の方が小さいので小落差をなして合流している。

丁字川のこの縦棒に該当する部分は数万年前、新たに生じた川である。つまり太古の徳佐川は篠目→徳佐→津和野→益田へと北上していたのだそうだ。ところが津和野近くに火山が生じ、溶岩は河道を塞ぎ、地面は盛り上がって山となり、真中にドカンと坐ってしまった。行き場を失った古徳佐川(現阿武川上流)の水は天然の大ダムを形成した。

放水しないダムだから水位はどんどん増し、やがて津和野方面から山口方面、あるいは佐波川方面にあふれて漏水しはじめると予想したいところを、意外にも萩方面に向って流出しはじめた。

はじめわずかの水漏れはやがて決壊となり、大洪水となってすさまじい滝をなし斜面をかけくだる。新方水路の両岸はみるみる激流に削られ、下刻されて深い谷をなした。

長門峡の生い立ちにはこのような天変地異がまつわっている。かって戦場のように轟いた谷も、今は平和といってよいおっとりとした渓谷である。かくして阿武川は思わぬ新領地を獲得して、県下で一、二を争う大川となったのである。