著者紹介
最小化

清水秀登
昭和12年6月16日生

◆山口植物学会役員
◆周防巨木の会主宰
◆風子会代表
◆山口地学会会員

            
 
 
四季の渓態
最小化

<春> 落葉樹帯の渓流ならば、枯れた明るい渓で、下草も少なく歩きやすい。害敵の心配もなく、芽吹き前の微妙な色あいも楽しめる。

コバノミツバソツジやヤブツバキの花などの色豊かなばしょもある。

一方水温はまだ低いから水中に入るには気持ちの抵抗がある。

晩春は、なにはともあれ新芽の美しさを賞でる時である。

<夏> 流れの美しさと清涼感を満喫する時季である。そのためにはどしどし水の中へ入ってゆくことで、そのことがとりもなおさずマムシから身を守ることにもつながる。

沢登りの醍醐味を味わえる季節だからその技術を身につければ、楽しさは倍増する。

<秋> 初秋は沢党にとっては夏に同じことだが、十月ともなると高地の沢は華やいでくる。

紅葉を味わう時季だが、私の場合あいにく公私共に繁忙で、あまり場数を踏んでいない。

<冬> この季節は沢党にとってはシーズンオフと部外者には思えるだろうが、氷結の情景もまた格別だという。私には氷上を俳諧する技術がないから沢さがしの時季にしている。木の葉などないから写真を撮るに適している。

近年林業改善の意欲がとみに盛んで、雑木林が取り払われ、スギ、ヒノキへの改造が急ピッチに進んでいる。

残念ながらこの針葉樹林化は、ハイカーや沢党から季節感を奪ってしまって、気温変化だけの世界にしつつある。

 

            
 
 

目次



参考文献
最小化


防長風土注進案 (1983年)


山口県風土誌〈第1巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第5巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第9巻〉 (1973年)


◆岩国市史

防長風土記 (1957年)


玖珂郡志 (1975年)


◆日本の滝 上・下 土屋書店・渡辺晃一

防長百山 (1977年)


◆やきもの風土記 マツノ書店・神崎宜武

◆長門周防の伝説 第一法規・松岡利夫

山口県地名考 (1978年)


◆西日本の山釣 釣りの友社・山本素石

◆日曜の地学 山口地学会

沢登りの勧め―渓谷美を楽しむ知識と技術 (1978年)


◆日本の地形 岩波新書・貝塚爽平

◆その他

            
 
 
関連サイト
最小化

 Cray's Whisper

VACCO HOSTING SERVICE

Browntongue

LLP en

玖珂隕石に光をあてよう

防長四十八滝

防長四十八渓

            
 
 
No.06 二鹿峡
最小化

岩国市

二鹿は岩国市とはいえ市域の西端で、感覚的には玖珂郡の美川町である。二鹿川は蓮華山を源流とし、相ノ谷、二鹿を経て、コセンドウ山のまわりを半円を描くようにして錦川本流に注ぐ。その沢口は二鹿谷といい国道187号線が2号線と分かれてから7キロの地点にある。

渓谷の距離は約5キロ、県内でも10指に入るスケールで、古くは鬼神谷と呼ばれていたようだ。この峡と私のかかわりは10年来で、最初の引き合わせは岩国在住の前島氏による。その後この谷の探勝には多くの苦労とエピソードが伴い、私にとって高瀬峡と並ぶ愛着の深い渓谷となった。

はじめの数回は、限られた区間だけの訪問、全面探勝は3回である。第1回は前島氏と2人で、第2回は単独行、第3回は山の会の会員2名との合同行である。
 この峡を都合により、下、中、上の3区間に区切って解説する。区切りはアベウシの淵とオシドリ淵をもってする。

<下二鹿渓> 二鹿谷の沢口近くに吊橋があり、そのたもとにバスも停まる。橋のゆらゆらするのを歩調でくずして対岸に渡ると2戸の民家がある。左に曲がれば岩日線のガード下になる。田の畔のような径をたどって川の徒渉点に至る。川には切り株のようなコンクリートの足場が作られてあるので楽だ。

左岸の小径に入るとすぐ、三連の堰に出会う。第1の堰は広くて水泳場につかえそうだ。第2は深いが曲がっており、川の運搬物の堆積したところもあって、泳ぎには不向きであろう。第3のえんは堰は底が抜けており、増水時に流木等をこし取る働きぐらいしかしていない。

増水期以外はこの木片等の堆積層の上を斜横断して左岸に出る。そしてまたすぐ渡渉があって右岸に出れば、見失いがちだった踏跡道がはっきりしてくる。ここにコセンドウへの沢分れがあるが、本流沿いに直進する。300メートル先にゴーロ帯があり、部屋大の岩がいくつか川の中に腰をすえている。その先300メートルでは、右岸がやや広くなっていて、土砂がたまり木も生えている。ここで一休みして前方を見ると、小高いところから落ちる滝が見える。霧がくれの滝である。

ここから少しの地点に崖があり、道がゆきどまりとなる。川の中を歩き、泳げば突破できるが、右岸のやや高いところに巻き道があるので、それを使えばこのゴルジュ(G2)をやり過して滝の直下に出られるし、その次のアベウシの淵の巻き道にも使える。

G3は崖にはさまれた3つの淵が続いている。その先端に、霧がくれの滝から着地した水が数段の小滝となって注いでいる。

滝は推定65メートル、落差だけなら県下一だろうが、水量が少なく着地前に"しぶき"に化している。

川づたいに200メートル前進するとやや小規模な淵を通過する。そしてその先100メートルでこの峡のクライマックス部であるアベウシの淵にさしかかる。水深が増してきて、まず右岸が屏風風になり、やがて左岸もなって廊下が出現する。淵が珠数玉状に連らなって、両岸が狭くなり、樹の枝が上空を覆ったようになって暗がりを作る。

左岸から糸状の滝が20メートル位の高さで淵の中に落ちている。その奥に大きな深い円形の淵があり、その直後に2メートルばかりの滝が踊っている。ここを溯上できる人はまずいないだろう。川づたいの場合は引き返して、先述の霧がくれの滝から巻き道に入るのが賢明だ。

釜の上の滝の先に、不定形の淵が小滝をまじえて続き、水流部をたどるのは至難の業である。ここを巻く踏跡道は真中あたりで不明になる。くいちがいの棚のような岩場を通り抜けるが立ち木が多いので危険ではない。足元にセンリョウの自生を見つけたりしてオヤと思わされる。

アベ牛とはどんな牛か知らないが、この淵に牛が滑落して水死したという語り伝えがこの奇妙な名前の由来らしい。観光案内図の中に展望台が書き込まれているが、人口施設は見当たらないから両岸のどこかを指すのであろう。

釣り師もこの淵まで遠征して来るものはいないだろうから、釣りの処女地ではないかと思っている。

<中二鹿渓> アベ牛から上流は淵、瀬、河原が断続する。通過にかなり手こずる場所がおしどり淵までの2キロに5ヵ所ある。その中でもG8はアベ牛に次ぐ難所で、なす形の淵が4つ連なり、オーバーハングの両岸が迫っている。泳いで中央突破するのも一方法だが、右岸を越えて高巻きするのが適当であろう。

他の単発ゴルジェは、一見泳ぎを決断させられそうだが、両岸はへつりが可能で、右岸の方には部分的に杣道が残存する。川中をたどるよりも力の消耗が少なくてすむ。

<上二鹿渓> G9のおしどりの淵には右岸から小川が注いでいる。その谷を100メートルばかり入りこむと滝があり、おしどりの滝といわれている。30メートル近い、苔で飾られた滝だ。

淵の右岸には明瞭な杣道が残っている。その直後に控えるゴルジュ付近の竹薮で径が不明になるが200メートル先のG11で左岸に復活する。ここは丸木橋が流失してしまった所だ。ここからの踏跡を300メートル溯ると、砂利の車道に出くわす。

車道は鋭角でターンして山の方に登って、マンガン鉱山につながっている。ダンプが出入りするのでここでの駐車は要注意である。ここから車道と川とが縄のように交差をくりかえし、300メートル先でG13をかすめる。ここが近年岩国市によって開発された"二鹿峡"で、短いがまとまっている。

川が2裂しているところからアスファルト車道になる部分までの200メートルばかりの区間である。まず川の出会いの箇所に深い方形の淵と歯形の鋭いゴルジュがある。この淵に米兵が高所から飛び込みをしていた。アカプルコを想わせるが、この広くない淵で最初に敢行した人の勇気に敬服する。

ゴルジュの奥に梅津の滝が清楚な姿を見せる。古くは角倉の滝と云われ、大きく深い淵を具えている。

梅津の名は伝説上の人物名で、京の都を荒らす二頭(ふたがしら)の鹿(しし)の討伐を命じられた梅津の中将に由来する。中将は追跡の末ここで鹿をようやく斃したが本人も疲労で倒れてしまったという。

一方私の母親の聞き伝えはこうである。鳥帽子ヶ岳の南中腹にある石毛明神のお宮の供物を食い荒らす鹿を追って、ある人が明神から明見谷を経て二鹿まで来てここで射止めた。鹿の腹を割いたところお宮のお札が出てきたので、人々はおそれをなして社を建てた。それが小学校横の今のお宮だという。

この話は二鹿から来ていたこびき職人に聞いたそうで、どうもこちらが本筋で、伝説は付会のように思われる。

この峡は基地の米兵によって長く親しまれ、最近になって岩国市民などに認知されるようになった。アメリカ人のほうが清流への関心が高いということだろう。そして最近小学校の近くに、野外活動センターが開設された。いったん着目されると開発テンポは急である。