著者紹介
最小化

清水秀登
昭和12年6月16日生

◆山口植物学会役員
◆周防巨木の会主宰
◆風子会代表
◆山口地学会会員

            
 
 
メモ
最小化

渓歩きの安全のために

古来人々は淵や瀬を恐れてきた。

子供のころ。”えんこう”の話がどこからともなく伝わってきて、川の深みに近づくことをさけてきた。そのような迷信はどの地にも伝わってるようで、これはとりもなおさず、大人の子供たちへの安全教育だったのである。

 川の中の岩は苔で滑りやすい。また澄んだ川底は見かけより深く、うずの関係では浮き上がれないこともある。そんな経験が渓流へ近づく危険への警鐘として老人の口から語られたものであろう。

私自身、人一倍川の深みを怖がる子供であった。30才を過ぎて渓水に魅せられ、おずおずと接しているうちに、初歩的な沢歩きの歩行が身に付いたというところである。

渓歩きの安全について気のついた範囲で、我流での見解を述べてみる。

まず、思いきって水の中へ入ってゆくことが第一である。水の中へ入るまでは、はきものや衣服をぬらさないことに気がいって疲れるし、その事が無理な動作につながって転倒しやすい。

入ってしまえば意外と快適であって転倒しても怪我はしない。

第2はスタンス(足場)とホールド(手づかまり)の一つ一つのたしかめを怠らぬことである。三点確保はロッククライミングの基本だが、このことは渓歩きにも同じである。スタンスとホールドで三点確保を行えば、たいがいの難所は突破できる。

第3に難所は高巻けといいたい。経験を積んでよほどの自信がないかぎり、崖への直登は避けるべきである。

第4は装備のすすめで、ヘルメット渓流たび、リュック、軍手、シュリンゲ(輪のようにした丈夫なひも)、短いロープ等はぜひ携行したい。

            
 
 

目次



参考文献
最小化


防長風土注進案 (1983年)


山口県風土誌〈第1巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第5巻〉(1972年)


山口県風土誌〈第9巻〉 (1973年)


◆岩国市史

防長風土記 (1957年)


玖珂郡志 (1975年)


◆日本の滝 上・下 土屋書店・渡辺晃一

防長百山 (1977年)


◆やきもの風土記 マツノ書店・神崎宜武

◆長門周防の伝説 第一法規・松岡利夫

山口県地名考 (1978年)


◆西日本の山釣 釣りの友社・山本素石

◆日曜の地学 山口地学会

沢登りの勧め―渓谷美を楽しむ知識と技術 (1978年)


◆日本の地形 岩波新書・貝塚爽平

◆その他

            
 
 
関連サイト
最小化

 Cray's Whisper

VACCO HOSTING SERVICE

Browntongue

LLP en

玖珂隕石に光をあてよう

防長四十八滝

防長四十八渓

            
 
 
No.05 生雲渓
最小化

阿東町

以前のように水さえ十分に供給されれば、迫力の点では県下で一、二を争う渓谷である。この渓は長門峡の一部とみなされてしまうこともあるが、その資質からして独立させて扱うことにしよう。

私が初めてこの渓谷に足を踏み入れようとした時は、晩秋の水涸れ頃であった。落ち葉が淀んだ水面を覆って異臭さえしかねない有様で、全体像を知らなかった私は早々に退散してしまった。帰宅後地図で、上流にダムがあり、水が分水されて発電所のほうに持ち去られている事がわかって事情がのみ込めた。

再度の探訪では、その変化に富んだ渓態と迫力にひきこまれてしまった。この渓の開口部は、長門峡の下流端の紅葉橋の近くにある。赤い彩色を施したつり橋を渡った対岸である。

遊歩道は終点のダムまで、右岸につけてあり、数年前までは踏跡道程度であって雨あがりには危なかった。今はメインの長門峡と同じく手摺、階段つきのセメント歩道に改造されている。

沢口あたりは普通だが、やがて両岸がせばまり垂直に迫ってくる。川筋は城下の通りのように方向がかわり、屈曲している。300メートルばかり先で急勾配の階段が現れる。7メートルの滝とそのジャンボな釜を避けて斜面を巻いているからで、滝は死角になって見えないが、溝のように岩盤を穿って三段に落ちている。このこわもてのする大釜を杣淵、滝の方を杣淵の滝というらしい。

滝をかわした後、歩道はいったん降り道となり、やや柔和に化した渓流をカーブしながらたどる。再び行手の両岸が狭くなり、オーバーハングぎみに迫ってくる。川は岩壁の間隙を探してかろうじて通じている感じだし、その絶壁の間隔は3メートルにも満たない。まるで洞窟を通過している気分になる。もしかすると、昔、川の流れが実際に地にもぐっていたということも考えられる。歩道はその絶壁に吊棚のように装着されており、このゴルジェ部はくらがりの淵という名で呼ばれている。

ダム以前ここを探訪した人はこのすさまじいゴルジェ部をどう突破したであろうか。わが会の三人衆の技術をもってしても無理におもえる。それにしても崖のなかほどのバルコニーのような鉄の棧道の工事もまた大変であったろう。

くらがりの淵の通過の際の緊張が解けないうちに、飛渡の滝とその淵が姿を見せる。方形の大岩体から、これも方形の淵に10メートルの滝が落ちている。その深い淵の上に突き出すかのような歩道を登る時は身が引きしまる。

飛渡の滝とは、その落ち口の所で歩道からその巨岩に向って、我々でも飛んで渡れそうだから名付けられたのであろうか。

くらがりと飛渡とがこの峡のクライマックスだが、残念に思うのは水の少ないことだ。もし十分な水があれば、くらがりの淵はその凄みを倍加しよう。三段峡の向うを張って猿飛びの淵のつもりで小舟でも通せば、この峡の目玉にもなろう。またちょろちょろ落ちる飛渡の滝も、水さえあれば堂々としてきて絵になるだろう。

滝の落ち口から先は谷も明るくなり、渓態も並にかわってゆく。径は川面から次第に距離をおくようになり、斜面の林の中を登ってゆき、ダムの堰堤に到着する。
 この峡内の貫流している川を生雲川といい、阿武川では3番目に大きい支流である。その名はその中流にある部落名をとったもので、この流域のセンターである。その生雲は萩~三谷間の県道と生雲川に沿う道路との交点にある。

生雲川に接している車道を下流方向にたどると前述のダムにいたる。このダムはさほど大きくないが、いつも満々と水を湛えている。というのも阿武川本流の三谷の近くから道水管が引かれて水の補給が行われているからだ。その三谷と生雲市とを結ぶ県道ルートは地図で見ると帯状の低地をなしていて、素人目にもかつての河原跡ではないかとの発想が浮かぶ。

そこで生雲渓の成因につき、少々強引でひとりよがりの推理をしてみよう。東長門峡で触れたように古徳佐川が津和野川と断ち切られる以前は、生雲川も津和野川の支流であったのだろう。そしてその流路は今とはちがって、生雲~三谷間の谷を流れて古徳佐川に合流していたものと思う。そして県境の火山の出現で徳佐湖ができた時、その湖水は生雲方面にも逆流して押し寄せ、盆地は湖底と化したであろう。排水溝を持たなかった湖水はじりじり水かさを増して、今の長門峡に近い山のあい間にも寄せてきて、ついには天子の先で山の向こう側に向って漏水も始まったと思われる。これが原生雲峡で、その後御堂原で大々的な排水が始まって、大湖水は今の東長門峡を形成しつつどんどん干上がっていった。

徳佐湖の縮小と共に生雲盆地の水も減少していって、三谷~生雲の低地は陸化したが、今の川沿いの小湖水として存続したのではないかと想像する。そしてかつて生じた天子側の排水路が復活し、本格的、継続的に放水し、浸食作用による下刻も進んで、現在の生雲渓が形成された。

渓態を見ると、生雲渓より東長門峡の方が明らかに老成している。後者を中年とすれば、前者は青年期に相当するように思われる。この差の原因は、水量のちがいが第一の要因であろうが、生雲渓の下刻活動にはかなりの中断があったことも関係していると思う。そして再開後の本格的な侵食活動は、たかだか数千年ではなかろうか。

ダムの水面の末尾の少し手前の所で、前記の車道が山手の方にそれ、峠を越えて湯ノ瀬温泉の付近につながっている。ダムからの導水管をかすめながら、急斜面を一気に下る道である。