阿東町
以前のように水さえ十分に供給されれば、迫力の点では県下で一、二を争う渓谷である。この渓は長門峡の一部とみなされてしまうこともあるが、その資質からして独立させて扱うことにしよう。
私が初めてこの渓谷に足を踏み入れようとした時は、晩秋の水涸れ頃であった。落ち葉が淀んだ水面を覆って異臭さえしかねない有様で、全体像を知らなかった私は早々に退散してしまった。帰宅後地図で、上流にダムがあり、水が分水されて発電所のほうに持ち去られている事がわかって事情がのみ込めた。
再度の探訪では、その変化に富んだ渓態と迫力にひきこまれてしまった。この渓の開口部は、長門峡の下流端の紅葉橋の近くにある。赤い彩色を施したつり橋を渡った対岸である。
遊歩道は終点のダムまで、右岸につけてあり、数年前までは踏跡道程度であって雨あがりには危なかった。今はメインの長門峡と同じく手摺、階段つきのセメント歩道に改造されている。
沢口あたりは普通だが、やがて両岸がせばまり垂直に迫ってくる。川筋は城下の通りのように方向がかわり、屈曲している。300メートルばかり先で急勾配の階段が現れる。7メートルの滝とそのジャンボな釜を避けて斜面を巻いているからで、滝は死角になって見えないが、溝のように岩盤を穿って三段に落ちている。このこわもてのする大釜を杣淵、滝の方を杣淵の滝というらしい。
滝をかわした後、歩道はいったん降り道となり、やや柔和に化した渓流をカーブしながらたどる。再び行手の両岸が狭くなり、オーバーハングぎみに迫ってくる。川は岩壁の間隙を探してかろうじて通じている感じだし、その絶壁の間隔は3メートルにも満たない。まるで洞窟を通過している気分になる。もしかすると、昔、川の流れが実際に地にもぐっていたということも考えられる。歩道はその絶壁に吊棚のように装着されており、このゴルジェ部はくらがりの淵という名で呼ばれている。
ダム以前ここを探訪した人はこのすさまじいゴルジェ部をどう突破したであろうか。わが会の三人衆の技術をもってしても無理におもえる。それにしても崖のなかほどのバルコニーのような鉄の棧道の工事もまた大変であったろう。
くらがりの淵の通過の際の緊張が解けないうちに、飛渡の滝とその淵が姿を見せる。方形の大岩体から、これも方形の淵に10メートルの滝が落ちている。その深い淵の上に突き出すかのような歩道を登る時は身が引きしまる。
飛渡の滝とは、その落ち口の所で歩道からその巨岩に向って、我々でも飛んで渡れそうだから名付けられたのであろうか。
くらがりと飛渡とがこの峡のクライマックスだが、残念に思うのは水の少ないことだ。もし十分な水があれば、くらがりの淵はその凄みを倍加しよう。三段峡の向うを張って猿飛びの淵のつもりで小舟でも通せば、この峡の目玉にもなろう。またちょろちょろ落ちる飛渡の滝も、水さえあれば堂々としてきて絵になるだろう。
滝の落ち口から先は谷も明るくなり、渓態も並にかわってゆく。径は川面から次第に距離をおくようになり、斜面の林の中を登ってゆき、ダムの堰堤に到着する。
この峡内の貫流している川を生雲川といい、阿武川では3番目に大きい支流である。その名はその中流にある部落名をとったもので、この流域のセンターである。その生雲は萩~三谷間の県道と生雲川に沿う道路との交点にある。
生雲川に接している車道を下流方向にたどると前述のダムにいたる。このダムはさほど大きくないが、いつも満々と水を湛えている。というのも阿武川本流の三谷の近くから道水管が引かれて水の補給が行われているからだ。その三谷と生雲市とを結ぶ県道ルートは地図で見ると帯状の低地をなしていて、素人目にもかつての河原跡ではないかとの発想が浮かぶ。
そこで生雲渓の成因につき、少々強引でひとりよがりの推理をしてみよう。東長門峡で触れたように古徳佐川が津和野川と断ち切られる以前は、生雲川も津和野川の支流であったのだろう。そしてその流路は今とはちがって、生雲~三谷間の谷を流れて古徳佐川に合流していたものと思う。そして県境の火山の出現で徳佐湖ができた時、その湖水は生雲方面にも逆流して押し寄せ、盆地は湖底と化したであろう。排水溝を持たなかった湖水はじりじり水かさを増して、今の長門峡に近い山のあい間にも寄せてきて、ついには天子の先で山の向こう側に向って漏水も始まったと思われる。これが原生雲峡で、その後御堂原で大々的な排水が始まって、大湖水は今の東長門峡を形成しつつどんどん干上がっていった。
徳佐湖の縮小と共に生雲盆地の水も減少していって、三谷~生雲の低地は陸化したが、今の川沿いの小湖水として存続したのではないかと想像する。そしてかつて生じた天子側の排水路が復活し、本格的、継続的に放水し、浸食作用による下刻も進んで、現在の生雲渓が形成された。
渓態を見ると、生雲渓より東長門峡の方が明らかに老成している。後者を中年とすれば、前者は青年期に相当するように思われる。この差の原因は、水量のちがいが第一の要因であろうが、生雲渓の下刻活動にはかなりの中断があったことも関係していると思う。そして再開後の本格的な侵食活動は、たかだか数千年ではなかろうか。
ダムの水面の末尾の少し手前の所で、前記の車道が山手の方にそれ、峠を越えて湯ノ瀬温泉の付近につながっている。ダムからの導水管をかすめながら、急斜面を一気に下る道である。